演繹的手法で言えば、クリミア戦争がロシア水兵500人を伊豆半島の小さな漁村、戸田村(2005年沼津市と合併)に招いたことになるだろう。
クリミア戦争は、1853年ロシアとトルコの領有権の争いで、途中から利害がからむイギリスやフランスがトルコ側に加わり1856年ロシアの敗北で終わる。
初めて見る紅毛の異人、それも500人ものロシア海軍の水兵たちの出現に地元民は仰天したことだろう。そして、この地で日本で初めての洋式帆船が造られ、戸田とロシアは深い繋がりをもつようになった。
安政元年(1854)11月、大地震による津波が幕府と日露和親条約締結交渉のために下田港に停泊していたディアナ号を襲った。ロシア使節プチャーチン提督の乗艦だったディアナ号は大破した。
修理の為自力で戸田港に向かったが途中操船不能となり富士市三四軒屋の沖まで流されて座礁する。乗員全員は地元漁民に救助され、一行は幕府の海路での移動の申し入れを断り陸路を徒歩で一泊二日をかけて戸田入りした。よほど海での遭難に懲りたのだろう。
ディアナ号をあくまでも戸田で修理をするということで漁船による曳航を試みたが、シケで失敗してディアナ号は沈没してしまった。そのため帰国の代艦が造られることになる。
そこで冒頭のクリミア戦争の話になるのだが、なぜ破損したディアナ号の修理に下田港を使わず戸田村が選ばれたのだろうか。江戸時代末期、徳川幕府は欧米列強から開国を迫られ下田と函館を開港し、世情は攘夷か開国かで騒乱の真っ只中にあった。幕府としては日本人の目につかない場所がいい。ロシアとしては敵国であるイギリスやフランスの軍艦が下田に寄港するので撃沈される恐れがあり下田は避けたい。戸田湾は近くにあって、周囲を山で囲われ海からしか入れない、入り口が狭くて懐がひろい巾着型をしている。条件がもっとも好ましい場所だったのである。
戸田村が沼津市と合併してここに戸田造船郷土資料博物館があることを知った。6月初旬の日曜日、息子達家族と出かけてみた。県道17号沼津土肥線で戸田港にさしかかる手前に展望台夕映えの丘がある。ここから見る戸田湾の俯瞰はまるで絵のようで、まさに天然の美港だ。御浜岬が湾を抱え込むように延びてその先端の樹林の中に博物館がある。
岬に右折する手前の17号線の右側に造船所跡碑(静岡県指定史跡)が建っている。結構大きな石碑なので分かり易い。
博物館の入り口には昭和26年に引き揚げられたディアナ号の錨が展示されている。全長4,78m重量4トンある巨大な錨だ。錨は昭和51年、もう一基引き上げられ富士市の錨公園に展示されている。ディアナ号は2,000トンの木造帆装戦艦で、大砲52門を搭載していた。中に入ると館内は空いていた。「ボランティアをしている山口です。御案内しましょう」と言って地元で工務店を経営している山口さんが迎えてくれた。頂いた名刺を見ると奈良薬師寺西塔工事にも携わったとある。山口さんは、ここで日本で始めての洋式帆船2本マストのスクナー(戸田号100トン)がロシア人の指導のもとに建造されたこと、多くの造船技術の先駆者を輩出したこと、そして戸田号を再現したい夢を熱く語っていた。
(平成18年6月撮影)
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戸田湾
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造船所跡碑
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戸田造船郷土資料博物館
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| ディアナ号の錨 |
山口氏とディアナ号の模型 |
戸田号の進水式の図 |
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